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飯塚の町は、その昔は、長崎街道・飯塚宿。長崎・出島と江戸を結ぶ主要な街道沿いに栄えた町です。医師であり植物学者でもあったシーボルトを初め多くの異国の人々が、この飯塚を訪れ旅立っていきました。
徳川八代将軍吉宗の時には、遠くベトナムから、象が連れて来られたとの記録が残っています。 |
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| 象は、享保十四年(一七二九)三月十三日、長崎を出発。二十日には飯塚を通り、五月二十五日、江戸に到着。長崎を出てから六十二日目でした。巨大な動物、象の行列はさぞかし街道筋の人々の度肝を抜き、大きな話題になったことでしょう。他にもアラビア馬やラクダ、砂糖といった当時の貴重で珍しい文物が、飯塚の宿を通っていきました。飯塚の町は鎖国時代でありながら異国の空気が吹き込んでくる、小さな窓でもあったのです。 |
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そして明治になると、筑豊の各地で石炭の採掘が本格化。多くの炭鉱が開坑し全国から屈強の男達やモノ、カネ、情報が集まり、飯塚の町は野心と欲望の炎で沸きかえりました。
筑豊の石炭は、最初は遠賀川を川船(五平太舟)で下り、やがてそれは筑豊鉄道による輸送に変わり、若松港に集められました。明治三○年、当時の八幡村(現北九州市八幡区)に官営製鉄所が創設されると、筑豊の石炭はその重要なエネルギー源として北九州工業地帯の発展を支えたのです。飯塚は、明治以降、日本の中で最も先進的で活気に溢れた町として成長していきました。 |
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この飯塚に集まってきた荒くれ男達は見かけによらず、甘いものが大好物。地底での激しい労働の疲れを癒すのに糖分が欠かせなかったのです。
そして大正の初め、この町で、子どもたちが喜んでくれるだけでなく、世間をアッといわせるお菓子を作りたいと、野心を燃やしていたのが「ひよ子」の創案者となった石坂茂でした。
連日連夜、いろんなアイデアが、彼の頭の中をぐるぐる回ったあげく閃いたのがひよこの姿。
「この姿、そのままを菓子にしよう」茂にとって、この菓子は苦労の末授かったわが子と同じ。だから「ひよ子」と名づけました。わが子「ひよ子」、という思いからです。
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| ひよ子の生まれ故郷は、飯塚の町です。ひよ子本舗吉野堂は、この町のもつ独特の先進性を忘れずに学び続けていきたいと考えています。 |
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