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想いのかたち もっと愛される饅頭を作りたい
ひよ子の生い立ち
まもり継ぐかたち
ひよ子本舗吉野堂物語

 
 
 
 
 
 
 
 
ひよ子本舗吉野堂物語
 
 
 
 
ひよ子の草案者石坂茂が、昭和十三年に亡くなった後、妻のイトは、長男博和をはじめ四人の幼子を抱えて、戦中、戦後の苦難の時を「夜の目も寝ず」に働いて、女手ひとつで乗り切っていきました。戦時下物資不足で休業せざるえなくなったときにも、イトは「いつか、必ずひよ子を作る」という強い意志と希望を持ち続けてがんばりました。イトは、どんな時にも明るく、力強く、生き抜いた「飯塚の女」でした。
そして昭和二十七年、博和はイトが守ってきた事業を受け継ぎ、福岡にも進出、それは亡き父、茂の「東京進出」という夢を実現する第一歩でもありました。しかし当時は、日本のエネルギー源が石炭から石油へと転換し、筑豊の炭鉱は、次々と閉山。多くの人々が筑豊の町々から去っていく、そんな時代でした。
 
 
 
ふるさとが苦しいときだらからこそ、飯塚生まれ・九州育ちのお菓子として、ひよ子は明るく、元気にがんばりました。そして、全国で人気者になりました。昭和五〇年代には、ひよ子は工場を発祥の地飯塚に戻しました。飯塚を、もういちど元気な町に。そんな、思いからでした。昭和五十六年に「飯塚総合工場」、昭和六十三年には「穂波工場」が、稼動し始めました。平成元年、常陸宮殿下・妃殿下ご視察の栄を賜った「穂波工場」(飯塚市楽市)では、女子従業員の機転で、両陛下に、ひよ子の仕上げに、両目を入れて楽しんでいただいたというエピソードも残っています。
 
 
 
 

その姿形のアイデアと「楽しく、面白い」遊びの感覚のお菓子として、広く認知され、全国的に評価されました。その背景に、飯塚という地域の持つ独特の冒険心と先進性の一端を見ることができるように思えます。そして、現在、飯塚市は、e-ZUKAトライバレー。九州工業大学情報工学部、近畿大学産業理工学部、同九州短期大学などを中心に、二十一世紀型先進地域づくりが進められています。ひよ子も負けずに、新しい「雛」を育て、もっと楽しい、もっと面白いことに、トライしていきます。

 
 
 
 
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